LOGIN五日目の夜、足音は夢の中で半分まで来た。
暗闇の中に一本のトンネルが伸びている。
照明はない。出口も見えない。
それでも、自分があの旧トンネルの中に立っていることだけは、藤崎翔太には分かった。
最初の夜、足音は遥か向こうから聞こえていただけだった。
二日目には、少し近くなった。
三日目には、歩いている者が一人ではないと気づいた。
四日目には、足音に混じって何かを引きずる音まで聞こえるようになった。
そして今夜。
ぺた。
ずる。
ぺた。
ずる。
濡れた裸足で歩きながら、重いものを引きずっているような音が、トンネルの半ばまで近づいている。
翔太は夢だと分かっていた。
分かっているのに、動けなかった。
足も腕も、喉さえも自分のものではないように固まっている。
暗闇の奥で、何かが止まった。
しばらく静かだった。
やがて声がした。
「翔太」
女だった。
若い声ではない。
老女とも違う。
年齢を想像できない、ひどく湿った声だった。
翔太は返事をしなかった。
あの夜、一度返事をしてしまった。
そのせいだ。
だから今度こそ答えてはいけない。
「翔太」
近い。
唇を噛み、声が漏れないように耐えた。
「翔太」
その呼び方が変わった。
今度は母親の声だった。
「翔太、起きなさい。遅刻するわよ」
幼いころ、毎朝聞いていた声だった。
胸が大きく鳴った。
「翔太」
次は、三年前に亡くなった祖父。
「おう、翔太。こっち来てみろ」
さらに声が変わる。
高校時代の担任。
別れた恋人。
動画配信を始めたころから一緒にやってきた仲間。
知っている声が、暗闇の向こうから次々に自分の名前を呼んだ。
そして最後に聞こえたのは、自分自身の声だった。
「藤崎翔太」
その瞬間、暗闇の奥に人影が現れた。
翔太は目を覚ました。
「うわあっ!」
ベッドから転げ落ち、床へ肩をぶつけた。
午前三時二十六分。
部屋は暗い。
エアコンは動いているのに、全身が汗で濡れていた。
翔太は床に座り込んだまま、スマートフォンを探した。
着信が一件ある。
非通知。
午前三時二十五分。
夢から覚める一分前だった。
偶然だ。
そう思いながら履歴を消そうとして、指が止まった。
留守番電話が残されていた。
再生する。
最初の十秒ほどは無音だった。
そのあと、
「翔太」
と、自分自身の声が言った。
◇
「動画は消してください」
久世環が最初に言ったのは、それだった。
「え?」
藤崎翔太の向かいに座っていた二人の青年が同時に声を上げた。
三人は、動画配信サイトで「ナイトダイブ」というチャンネルを運営している。
二十代半ばの翔太、撮影担当の松永圭介、編集と企画を担当する大城直人。廃墟、都市伝説、心霊スポットなどを巡る動画を中心に投稿しており、登録者数は十数万人まで増えていた。
問題の旧トンネルへ行った動画も公開済みだった。
公開から四日。
再生回数はすでに百二十万回を超えている。
「先生、まだ何が原因か決まったわけじゃないですよね」
大城が言った。
「動画を消すのは正直かなり痛いです。今回、チャンネル始まって以来の伸び方なんですよ」
「そうでしょうね」
「だったら――」
「だから消してください」
環は声を強めなかった。
しかし大城は言葉を止めた。
「場所が分かる映像が入っています。旧道への入り口も、脇道も、トンネルまでの歩き方も。それを見て真似する人が出ます」
「一応、動画の最初に『立ち入りは自己責任』って入れてます」
今度は蓮が口を挟んだ。
「それ、何の免罪符にもならないよ。しかも今回は翔太君本人に何か起きてるんだろ。だったらなおさら、同じことを試す人間が出る前に止めたほうがいい」
「でも……」
大城はまだ納得していない。
翔太が低い声で言った。
「消そう」
「翔太」
「俺はもう嫌だ。再生数とかどうでもいい」
「どうでもいいって、今回だけでどれだけ収益になると思ってるんだよ。俺たち、これで食っていこうって話してただろ」
「じゃあ、お前が毎晩あの夢見てみろよ」
翔太の声が突然大きくなった。
「眠ったらあいつが近づいてくるんだぞ。起きても電話かかってきて、俺の声で俺の名前を呼ぶんだ。今日なんか電車乗ってたら、向かいに座ってた知らない婆さんが、いきなり俺の名前呼んだんだぞ」
「それは聞き間違いかもしれないだろ」
「じゃあ代われよ!」
翔太が立ち上がった。
「百二十万再生、全部お前にやるから代われ! 俺の名前呼ばれて、返事してみろよ!」
相談室に沈黙が落ちた。
圭介が翔太の腕を掴み、座らせた。
「悪かった。大城も、今は再生数の話やめろ」
「……分かったよ」
大城は目を逸らした。
環は三人のやり取りが落ち着くまで待った。
「翔太さん。トンネルの中で名前を呼ばれたときのことを、最初から話してもらえますか」
「動画、見てないんですか」
「少しだけ見ました。でも、編集されたものではなく、あなたの言葉で聞きたいんです」
翔太は両手で顔をこすった。
「あの日は、夜十一時くらいに着きました」
◇
関東地方某県。
県境に近い山間部に、その旧トンネルはある。
正式な名称を出さなくても、心霊スポットに詳しい者ならいくつか候補を思い浮かべるほど有名な場所だった。
現在使われている新しい道路から外れ、細い旧道を山へ入った先にある。
過去には交通事故、行方不明者、女性の霊、車の窓を叩く手など、数え切れないほどの噂が作られてきた。
どこまでが事実かは分からない。
環は二十年以上前、一度だけその入り口へ行ったことがある。
まだ三十代だったころだ。
当時も今と同じように相談を受け、人づてに頼まれて現地へ向かった。
しかしトンネルの入り口へ立った瞬間、引き返した。
怖かったからではない。
正確には、怖さより先に身体が拒絶した。
耳の奥が痛み、吐き気が込み上げ、足の裏から力が抜けた。
そして何より、トンネルの中から何十人もの声で、
「来ないで」
と聞こえた。
霊が人間を誘うのではなく、止めたのである。
環はその日のことを、長いあいだ誰にも詳しく話してこなかった。
「先生」
相談室を出たあと、蓮が追いついてきた。
「本当に行くんですか」
「行きます」
「前は入らなかったんでしょう?」
「ええ」
「今回は入る?」
環は少し困ったように笑った。
「着いてみないと分かりません」
「それ、全然安心できない答えです」
「私だって安心していませんよ」
「先生がそういうこと言うから余計怖いんですって」
環は歩きながらバッグの中身を確認した。
懐中電灯。
水。
タオル。
胃薬。
特別な法具らしいものはない。
蓮が覗き込む。
「それだけ?」
「ほかに何が必要です?」
「数珠とか、お札とか」
「私はお寺の住職でも神社の神職でもありませんよ」
「いや、知ってますけど、今日は何か持っていったほうがいい気がするんですよ」
「それなら予備の懐中電灯を持ってください。暗い場所ではそちらのほうが役に立ちます」
「ものすごく現実的だな」
「足元が見えないほうが怖いでしょう」
蓮は反論できなかった。
◇
出発前に三好真琴から資料が届いた。
古い新聞記事、道路工事の記録、周辺で発生した事故の一覧。
環は車内でそれらを読んだ。
「何か分かりました?」
運転する蓮が聞く。
「噂ほど死者は多くありません」
「やっぱり?」
「交通事故は何件かあります。でも、『トンネル工事で大量の作業員が死亡した』『女性が殺されて埋められた』『家族五人が車ごと焼死した』というネット上の話は、真琴さんが確認した範囲では裏付けがありません」
「心霊スポットあるあるですね」
「面白がって話を足していくうちに、本当のことが分からなくなるんでしょうね」
後部座席の大城が気まずそうに言った。
「俺たちも動画で噂を紹介しました」
「それ自体を責めているわけではありません。ただ、誰かが亡くなったという話を娯楽に使うなら、本当なのかくらいは確認したほうがいいでしょう」
「……はい」
翔太は窓の外を見たまま黙っていた。
圭介が隣から尋ねる。
「翔太、大丈夫か?」
「昨日から、起きてても聞こえる」
「何が?」
「足音」
車内の空気が変わった。
「今も?」
「ああ」
翔太は耳を塞いだ。
「車の後ろから、ずっとついてきてる」
蓮がバックミラーを見る。
後続車はいない。
「どんな音?」
環が聞いた。
「夢と同じです。裸足みたいな音と、何か引きずってる音」
「距離は?」
「昨日より近い」
「どのくらい?」
翔太は答えるまで少し時間がかかった。
「今、車のすぐ後ろです」
蓮の手がハンドルの上で強張った。
環は振り返らなかった。
「後ろを見ないでください」
「え?」
圭介が言う。
「全員です。バックミラーも見ないで」
「先生、俺、運転中なんですけど」
「必要な確認だけにしてください。後ろに何がいるか確かめようとしないで」
それから山道へ入るまで、誰も余計なことを言わなかった。
◇
旧道への入り口近くで車を止めた。
それ以上は徒歩だった。
日はまだ完全には落ちていない。
山の端に夕暮れの明るさがわずかに残っている。
それでも木々の間に入ると、急に夜が近くなった。
舗装はひび割れ、道端から伸びた草がアスファルトを覆っている。
「ここ、動画に出した道です」
大城が言った。
「だから場所が特定されたんですね」
環の言葉に、大城は黙った。
しばらく進むと、落書きされたガードレールの先に古い坑口が見えた。
環の足が止まった。
二十年以上前と大きくは変わっていない。
コンクリートは黒ずみ、入り口の周囲には苔が広がっている。
しかし、環が感じたものは以前とは違っていた。
「先生?」
蓮が隣へ来る。
「前より悪いです」
翔太が息を呑んだ。
「やっぱり何かいるんですか」
「います」
「女ですか?」
「分かりません」
環は坑口を見つめた。
「人の形をしていないんです」
三人の配信者が黙る。
大城だけが恐る恐る聞いた。
「それって……何ですか」
「長く残りすぎて、元が誰だったのか分からなくなったものがあります」
環は以前から、そうした存在を心の中で「残響」と呼んでいる。
強い恐怖。
怒り。
孤独。
苦痛。
同じ場所で何度も繰り返された感情が折り重なり、誰か一人の霊とは呼べないものへ変わる。
「話ができないんですか」
圭介が聞く。
「少なくとも、普通の意味での会話は難しいでしょう」
「じゃあ、除霊は?」
「その言葉を簡単に使わないでください」
環は坑口から目を離さない。
「今はまず、翔太さんとのつながりを切れるか確かめます」
「中に入るんですか」
蓮が尋ねた。
環は返事をしなかった。
一歩、坑口へ近づく。
耳鳴りが始まった。
二歩目。
胃の奥が持ち上がる。
三歩目。
そして聞こえた。
「環」
自分の名前だった。
蓮たちには聞こえていない。
環は立ち止まった。
「久世先生?」
翔太が呼ぶ。
「本名で呼ばないでください」
環の声が鋭くなった。
全員が息を呑んだ。
「ここから先では、お互いの名前を呼ばないで。何があっても返事もしないでください」
「どうやって会話するんです」
蓮が言う。
「肩を叩くか、『先生』『君』で十分です」
「先生はいいんですか」
「それは名前ではありませんから」
「こういうときだけ便利ですね、その呼ばれ方」
環は少しだけ笑った。
そのわずかな笑いが、全員の緊張を一度ほどいた。
だが次の瞬間、トンネルの奥から声がした。
「翔太」
本人だけではない。
全員が聞いた。
翔太の顔から血の気が引く。
環はすぐに彼の口元へ手を伸ばした。
「答えないで」
声は再び呼んだ。
「翔太」
今度は母親らしき女性の声だった。
翔太の目に涙が浮かんだ。
「お母さんの声です」
「違います」
「でも」
「声を借りているだけです」
環ははっきり言った。
「あなたのお母様ではありません」
◇
五人はトンネルへ入った。
圭介と大城には入り口近くで待つよう頼んだが、翔太が一人になることを嫌がり、結局、環と蓮、翔太の三人だけが奥へ進むことになった。
動画撮影はしない。
蓮が持つのは記録用の小型カメラだけだった。
トンネルの中は、外よりさらに気温が低かった。
湿った空気が肌にまとわりつき、壁から落ちる水滴が規則性なく響く。
五十メートルほど進んだところで、翔太が止まった。
「ここです」
「何が?」
「名前を呼ばれた場所」
環が周囲を見る。
壁には大量の落書きがあった。
人名。
日付。
相合傘。
意味のない言葉。
その一角だけ、黒く塗りつぶされたようになっている。
「その夜、何をしていたんです?」
環が聞く。
「最初は普通に歩いてました。大城が怪談を読んで、俺と圭介が反応して。それからコメントで聞いた『名前を呼ばれても返事するな』って噂を試そうってなって」
「どうやって?」
翔太は言いにくそうにした。
「自分たちで呼び合ったんです」
「……何ですって?」
「まず圭介が俺の名前呼んで、俺が無視する。俺が大城を呼んで、大城が無視する。そんな感じで」
環が目を閉じた。
蓮が横から小声で言う。
「先生、怒ってます?」
「呆れています」
「そっちのほうがきついですね」
翔太は俯いた。
「すみません」
「それで?」
「圭介が俺の名前を呼んだあと、もう一回、奥から同じ声がしたんです。圭介だと思って『何だよ』って返事しました。でも圭介は後ろにいて、口を閉じてた」
「そのあと何が起きました?」
「何も。だから動画では盛り上がったんです。でも帰ってから夢が始まって……」
環は壁へ手を触れた。
冷たい。
次の瞬間、頭の中へ大量の声が流れ込んできた。
名前。
名前。
名前。
何十、何百という名前。
そのすべてに、
「はい」
「何?」
「どうした?」
と返す声が重なる。
環は壁から手を離した。
身体がよろめいた。
「先生!」
蓮が支える。
「大丈夫です」
「全然大丈夫に見えませんけど」
「少し気分が悪くなっただけです」
「それを普通は大丈夫じゃないって言うんですよ」
環は呼吸を整えた。
「ここで何人も同じことをしているんです」
「同じこと?」
「名前を呼び合って、返事をする遊びです。噂を聞いて来た人たちが、何年も何年も繰り返した」
蓮の表情が変わった。
「じゃあ、そのせいで」
「元から何かあったのかもしれません。でも、そこへ生きている人たちが恐怖を持ち込み続けた。怖がって、名前を呼んで、返事をして、そのたびに『何か起きるかもしれない』と強く思った」
「人間が育てたってことですか」
「そういう言い方が近いかもしれません」
環は暗闇の奥を見る。
「ここにいるものは、誰か一人の幽霊ではありません。名前を呼び、返事を待つことだけを覚えてしまった」
翔太が震える声で言った。
「じゃあ俺は、返事したから……」
「つながったんでしょう」
「どうやったら切れます?」
その問いに答える前に、トンネルの照明代わりに持っていた蓮の懐中電灯が消えた。
「うそだろ」
環のライトも消える。
完全な暗闇になった。
翔太の荒い呼吸だけが聞こえる。
そして、奥から足音が始まった。
ぺた。
ずる。
ぺた。
ずる。
「夢と同じです」
翔太が囁いた。
「黙って」
環が言う。
足音は近づいてくる。
「翔太」
母親の声。
「翔太」
祖父の声。
「翔太」
圭介。
大城。
知らない女。
知らない男。
最後に、
「翔太」
環の声まで混じった。
「俺じゃありませんからね」
蓮が小声で言った。
「今それを説明しなくても分かります」
「いや、先生の声まで使うから」
「静かに」
そのとき、翔太の右側から声がした。
「翔太」
今度は、幼い女の子だった。
翔太が身体を震わせる。
「……美優?」
環が彼の腕を掴んだ。
「知っている人?」
翔太は泣きそうな顔で頷いた。
「妹です。八年前に事故で……」
「返事をしないで」
「でも、妹の声なんです」
「違います」
「俺、最後に話せなかったんです。喧嘩したままで、謝れなくて」
暗闇の奥から、少女の声がした。
「お兄ちゃん」
翔太が一歩進もうとする。
環が腕を掴む。
「聞いてください。あなたの妹さんなら、こんなところへあなたを呼びません」
「でも――」
「あなたが後悔していることを知っているから、その声を使っているだけです」
「お兄ちゃん」
翔太の身体が震える。
「ごめんね」
少女の声が言った。
翔太の目から涙が落ちた。
「美優……」
口が開く。
環は思い切り彼の頬を叩いた。
乾いた音がトンネルへ響いた。
翔太が呆然と環を見る。
「すみません」
環は言った。
「でも今は、嫌われても止めます」
蓮が暗闇の中で呟いた。
「先生が人を叩くところ、初めて見た……」
「感想はあとです」
その直後、声が変わった。
少女ではなくなった。
何十人もの声が一斉に、
「返事して」
と言った。
翔太が息を呑む。
「返事して」
「返事して」
「返事して」
トンネルの壁全体から響く。
環はようやく理解した。
こいつは翔太本人が欲しいのではない。
返事が欲しいだけだ。
そして一度返事をした者には、次の返事を求め続ける。
「歩きます」
環が言った。
「出口へ戻ります。絶対に声を出さないでください」
三人は暗闇の中を戻り始めた。
足音がついてくる。
ぺた。
ずる。
すぐ後ろ。
翔太の肩へ、何かが触れた。
翔太が声を上げそうになる。
環が手を握った。
そのまま進む。
「環」
今度は環自身が呼ばれた。
亡くなった母の声だった。
「環ちゃん」
幼いころしか呼ばれなかった呼び方。
環の足が一瞬止まった。
蓮がすぐに環の腕を掴んだ。
何も言わない。
ただ引いた。
環は歩き出した。
自分が翔太へ言ったことが、そのまま返ってくる。
あなたの大切な人なら、こんな場所へ呼ばない。
「環ちゃん」
答えなかった。
やがて前方に薄い光が見えた。
入り口だ。
そこまで十メートル。
五メートル。
翔太が外へ出る。
蓮も続く。
環が最後だった。
坑口を越える寸前、耳元で誰かが囁いた。
「今度は、見つけてね」
環の足が止まった。
赤い紐の少女の声だった。
振り返りそうになった。
だが振り返らなかった。
そのまま外へ出た。
◇
翔太が道路へ膝をついた。
激しく吐いた。
圭介と大城が駆け寄る。
「大丈夫か!」
「翔太!」
「名前を呼ばない!」
蓮が怒鳴る。
二人が慌てて口を閉じた。
環はトンネルの入り口を見ていた。
中から声は聞こえない。
足音もない。
「切れたんですか」
翔太が地面に座ったまま尋ねた。
「今夜、確認しましょう」
「また夢を見るかってことですか」
「ええ」
大城がトンネルを見る。
「除霊はしないんですか」
「できません」
三人が環を見る。
「できない?」
「正確には、今ここで無理に消そうとは思いません」
「でも、また誰かが来たら」
「だから来ないようにするんです」
環の声が少し強くなった。
「あなたたちの動画を消してください。そして、何が起きたのかきちんと話してください。ただし場所は特定できないようにする。『試してみろ』ではなく、『真似をするな』と伝えてください」
「それでなくなるんですか」
「すぐにはなくならないでしょう」
環は坑口を見る。
「人が何十年もかけて育てたものなら、消えるにも時間がかかります。でも、新しく恐怖を持ち込む人が減れば、少なくともこれ以上強くなることは防げるかもしれません」
大城は黙っていた。
やがてスマートフォンを取り出した。
「今、非公開にします」
翔太が彼を見る。
「いいのか」
「よくないよ。正直、吐きそうなくらい惜しい」
大城は苦笑した。
「でもお前が本当に吐いてる横で、再生数のこと言ってたら人間として終わりだろ」
「遅いけどな」
「うるせえよ」
翔太も、少しだけ笑った。
◇
その夜、環たちは近くの宿に泊まった。
翔太は眠った。
一時間。
二時間。
三時間。
朝まで一度も目を覚まさなかった。
翌朝、食堂へ来た彼の顔を見て、環は結果を聞く前に分かった。
「来ませんでした」
「足音も?」
「何も」
「よかったですね」
翔太は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私は手を握って歩いただけですよ」
「思い切り頬も叩かれましたけど」
「あれは謝ったでしょう」
「覚えてます。人生で一番怖い霊能者でした」
蓮が吹き出した。
「それ番組の宣伝文句に使えそうだな」
「やめてください」
環が本気で嫌そうな顔をする。
大城が言った。
「動画、撮り直します。今回のことを話す動画にします。ただ場所は全部伏せます」
「それがいいでしょう」
「久世先生の名前、出していいですか?」
「構いません。でも、『最強霊能者が完全除霊』みたいな題名はやめてくださいよ」
「……候補にありました」
「却下です」
「じゃあ『有名心霊スポットで本当に名前を呼ばれました』」
「場所を煽ってどうするんです」
「先生、YouTube向いてないですね」
「よく言われます」
大城が笑った。
「でも今回は先生の言うこと聞きます」
その表情には、相談室で再生回数に執着していたときの硬さはなかった。
◇
東京へ戻る車の中で、蓮はしばらく環の横顔を見ていた。
「何ですか」
「いや」
「言いたいことがあるなら言ってください」
「あのトンネルの中で、先生も名前呼ばれたでしょう」
環は窓の外を見た。
「呼ばれましたよ」
「誰の声でした?」
「いろいろです」
「最後、急に止まりましたよね」
環は答えなかった。
赤い紐の少女。
あの声だけは、トンネルの残響が環の記憶から拾った声なのか、それとも本当に少女がそこにいたのか判断できなかった。
「昔の知り合いですか」
「……そうかもしれません」
「先生」
「今はそれ以上分かりません」
蓮はそれ以上追及しなかった。
代わりに前を向いて言う。
「それにしても、今回マジで怖かったですね」
「そうですね」
「先生でも怖いんですね」
「何度言えば分かるんです。霊が見えるから怖くないわけじゃありません」
「テレビだと平然としてるから」
「編集です」
「便利な言葉だなあ」
「本当ですよ。怖くて帰りたいと言っているところは、ほとんど使われません」
「イメージがありますからね」
「迷惑なイメージです」
二人がそんな話をしていると、環のスマートフォンが鳴った。
久世相談室へ転送される相談用の番号だった。
「はい、久世です」
電話の向こうから、女性の声がした。
『あの……テレビで久世先生を拝見して、お電話したんですけど』
「はい。どうされました?」
女性はしばらく言葉をためらった。
『こんなことを言ったら、おかしい人だと思われるかもしれません』
「まず聞きますから、話してみてください」
『夫が……帰ってくるんです』
「帰ってくる?」
『はい』
女性の声が震えた。
『毎晩、仕事から帰っていた時間になると玄関が開いて、靴を脱いで、食卓に座るんです』
「ご主人は今、どちらに?」
電話の向こうで女性が泣き始めた。
『一週間前に、お葬式をしました』
環の表情から笑みが消えた。
『夫はもう、死んでいるんです。それなのに、息子だけが毎晩、「お父さんが帰ってきたよ」って言うんです』
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」
第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、